牛頭観音・豚観世音・鶏観音碑

             牛頭観音石塔建立は昭和三十五年 こちらも資料抜粋

 昭和三十年代に入って、昭和三十九年東京オリンピック開催の決定で外国選手及び世界各国からの観光客に食肉不足を懸念し農耕用の牛、馬と更に搾乳する牛ホルスタインの牝の仔牛まで食肉用として飼育された。

 したがって、農家一戸で牛は何十頭、豚は何百頭と飼育される大規模経営となる。そして、東京オリンピックの大成功裡を契機に国民生活の豊かさは益々食肉類の消費が増加し、日本人の生活にも食肉が欠かせない時代となり、日本経済は大きく飛躍して来た。

 吾等人間の食生活の犠牲となり、日本人食生活向上と寿命の延びを来たした時代の背景に、今こそ牛、豚の安らぎの供養を営むことが私達の責務なることを痛感し、昭和三十五年に地元家畜商の協賛を得て、牛頭観音を建立する。

 昭和五十二年にも家畜商の協賛を得て豚観音石塔を建立しました。その後、鶏観音石塔も建立された。 

馬頭観世音碑

 山形市誓願寺にある馬の供養をするために建てられた石碑です。 誓願寺に残されている資料には次のように書かれています。

 馬頭観世音の石塔は弘化二年(一八四五年)乙巳年二月に建立される。 当時山形は紅花の産地で多くの近江京都の商人で賑わった。仔馬預託の商いと云って、商人は農家に仔馬を二年前に預託しておいた三歳馬に紅花を積んで帰るのがならわしで、何しろ交通と農耕には馬をどうしても欠かすことのできない動物であった。 したがって、この馬たちに感謝するため、地元山形の博労(牛・馬の仲買い商人)又は馬喰と農家及び近江京都の商人たちによって、馬頭観音の石塔が建立された。 慶長年間関ヶ原の戦いで山形城主最上義光が徳川方の戦捷祈願を誓願寺住職に命ぜられ、月山・湯殿山・羽黒山の三山に四十八日間祈願し大捷して家康公より褒状と三日町・八日町一帯を馬宿とする特権を与えられた。 笹谷街道から小荷駄町・三日町・八日町通りの便がよく宿場町とともに馬宿として多くの商人は勿論、三山参りの行者で賑わった。と書かれています。